売れっ子脚本家として有名な中園ミホさん。
「やまとなでしこ」や「ハケンの品格」など中園ミホさんの脚本のドラマが印象に残っている人も多いのでは?
2025年春の朝ドラ「あんぱん」の脚本を担当するなど、多忙を極めているかと思いますが
中園さんには脚本家としての顔以外にも占い師を生業とされている一面もあるようです。
今回は中園ミホさんが脚本家や占い師として活躍するようになった経歴や生い立ちをまとめてみました。
中園ミホの生い立ち
売れっ子脚本家としてのイメージが強い中園さんですが、どのような幼少期を過ごされていたのでしょうか?
また脚本家を目指したきっかけは何だったのでしょうか?
仲の良い両親のもとで育った幼少期
中園ミホさんのご両親は九州出身で中園さんが生まれたころには東京都で生活しています。
父親の弘光さんは朝日新聞社で仕事をするフリーのカメラマンでしたが、
血気盛んな性格で社員ともめて辞めてしまい、ほぼ無職の状態だったそうです。
そのため家計を支えていたのは母親の緑さんで、
女性週刊誌の記者の後は生命保険会社の外交員をされていたそうです。
中園さんは1959年7月16日に父・弘光さん、母・緑さんの次女として生まれ、
一人お姉さんがいらっしゃいます。
東京都中野区の4畳半と3畳ぐらいの大正時代の古いアパートで4人で暮らしていたそうです。
父親の弘光さんは無類の酒好きで、昼間から飲み
夜になると友人である画家や音楽家たちが家に集まって
酒を酌み交わして芸術論を戦わせるなど、なかなかにぎやかな環境だったそうです
え・・そんな環境、ちょっとやだかも
父親が職を持たず飲んだくれていれば、家庭内はすさんで
母親が愛想をつかし離婚することも考えられますが
両親の仲はすこぶるよく、愛情に満ちた明るい家庭環境で育ったおかげで
貧しかった環境下でも卑屈にならずに済んだとのことです。
「普通なら愛想をつかすのでしょうが、母は父に惚れていたし、恋愛の匂いを色濃く感じさせる親でした。母は美しい人で、男と女には、嫉妬とかいろんなものを含めた感情があるのだと、早くに知ってしまったようなところがあった」
「食うや食わずの時もありましたけど、卑屈にならなかったのは、やっぱり両親のお陰でしょう」
10代で両親を失う
一家はその後、母親の緑さんがある会社の独身寮の寮母として働くこととなったため
川崎へ移り住みます。
そして中園さんが10歳の時に父・弘光さんが42歳で亡くなります。
過度の飲酒による肝硬変だったそうです。
さらに悲しいことにその約10年後
中園さんが19歳の時に母親の緑さんも亡くなってしまいます。
45歳という若さでしたが末期がんだったようです。
10代でご両親を亡くし、
中園さんは今でも両親が恋しいと話しています。
「強いファザコンであり、マザコンでもありますね。ふたりとも若くして逝ってしまった。途方もない喪失感がずっとあります」
中園ミホの学歴は?
父親を10歳で亡くし、母親も45歳という若さで亡くなってしまい
中園さんの悲しみは計り知れないものだったと思います。
父親はほぼ無職状態でしたが、母親である緑さんは中園さんに、
大学卒業までの学費を残してくれており、
日本大学第二高等学校・日本大学芸術学部放送学科を卒業しています。
お母さん本当にありがとう
日本大学付属高校から大学まで一緒だった友人は中園さんの印象を以下のように語っていますが
「学内では、ひときわ個性が強く大物感が漂っていて、いずれ世に出る人だと思っていました。会話に大人のユーモアがあって、サガンや向田邦子の小説を好んで読んでいましたね。恋も多い人で、好きになったら決してあきらめない。でも相手に頼るのではなくて凜々しいんです」
当時の中園さんはただただ両親を早くに失い、19歳ごろの2年ほどの記憶を思い出せないほど
ショックが大きかったとのことです。
この時期に映画や小説に没頭していたそうです。
フィクションの世界に身を置くことで、現実逃避できたことや、
二回りも三回りも年上の男性との恋愛は
満たされない心を埋めるためだったそうです。
大学卒業後、広告代理店に勤務
大学を卒業後広告代理店に就職した中園さんですが「使えないOLだった」と自身で話しています。
その理由は
・まともにコピーもとれず
・お茶汲みは下手
・酒好きで飲んだくれて朝から酒臭い
・『徹子の部屋』が好きすぎて、就業中にこっそり会議室で見てしまい、上司から呆れ顔をされた
父親の影響でしょうか中園さんもお酒が好きで、
朝から酒臭い新入社員だったようですね。
結局1年3か月で広告代理店を退職し、
麻雀店やコピーライターのアルバイトをするも
どれも長くは続かなかったようです。
占い師として活動する
職が定まらない中園さんを救ったのは四柱推命の占いでした。
実は中園さんの母・緑さんの友人に今村宇太子さんという高名な数気学の占い師がいらっしゃり、
その先生のもとで14歳から真面目に勉強していたのです。
占いに興味を持ったのは誰も知らないはずの心の内までずばりと言われたのがきっかけだったそうです。
大学を卒業してから小さな広告代理店でOLをしていたものの、
自分のふがいなさに呆れ1年3カ月で退職し、一時は物書きを目指していましたが
なかなか思うようにいかず、
24歳のときに今村宇太子先生のもとで週3日ほどアシスタントをするようになりました。
今村宇太子先生は霊感が強いようで、負のエネルギーを持った人が来ると
「今日はあなたが占って」ということがあったようです。
こうして代理で鑑定することが増え、
政財界の名だたる大物や企業のトップを鑑定することもあったそうです。
有名政治家や企業のトップも占ったことで、人間の表面で見せる立派な顔より裏側のほころびの方がチャーミングだと気づき、人間の見方を覚えたといい、このときの経験が脚本家に生かされていると語っている。
占いの仕事は結構な収入になったようで
競馬場に行っては、
帰りは帝国ホテルのすし屋に乗り込むという豪遊をしていたようです。
脚本家としてデビュー
もともと母である緑さんも記者であり書くことには興味があった中園さん。
「ものを書く力は母から受け継いでいるかもしれません。母は私が幼いころに喋った言葉が面白かったらしく、毎晩、書き留めていた。そのノートは今も残してあります。私は7歳から詩を書き始めました」
広告代理店時代に同僚が申し込んだシナリオ講座に
代わりとして参加したり、
占いのアシスタントをしながら、脚本スクールへ通ったりした時期がありました。
そこから脚本家としてデビューするまでにどのようないきさつがあったのでしょうか?
年上の脚本家との失恋
とある対談で、26歳の時にある年上の脚本家に出会い一方的に片思いして、
失恋したことがきっかけで脚本家の道に進もうと思ったと話しています。
え?失恋したのに?
中園さんはその脚本家の方がホテルで缶詰めになって書いているのを知り、
クッキーなどの差し入れを持ってホテルのロビーで待ち伏せしていたのだとか・・・
え、それってちょっと迷惑かも
毎日同じようにロビーで待っていると
「警察に通報するよ」
「もう付きまとうな」
一方的な想いは成就せず、絶望の中、悶々としていたその時に
『あ、そっか、あの人と同じ仕事につけばまた会える!』とひらめき
国立国会図書館に毎日、お弁当を持って行って、
その脚本家が手掛けた脚本を全部大学ノートに書き写したのだそう。
ク、クレイジー
中園さんは「ただ彼を感じていたい」という情熱から、彼から生まれた活字をひたすら書き写すという
とんでもない行動をとったのでした。
国会図書館に1年ほど通い、彼の脚本のすべてを書き写したことがきっかけで、
脚本というものの構造に気づき、脚本そのものが面白くなったんだそう。
「そういう時の女の集中力ってすごいと思う」「写してる時に、脚本ってこういうふうになってるんだなってだんだんわかってきて。一目ぼれ…だった」と苦笑した。
その2年後中園さんは脚本家デビューを果たしました。
脚本家・桃井章氏との縁
脚本スクールに通っていた頃、著名な脚本家・桃井章氏との縁で、ある日、刑事ドラマの執筆を任されたのです。
「きっかけは、忙しい桃井先生の執筆のお手伝いをしたこと。『とりあえず下書きでもいいから書いて』と言われ、思いがけないチャンスが舞い込んだと感じました。それまでぐうたら人生だった私の頭の中には、書かない言い訳がぐるぐる。けれど、今村先生に相談すると、『いま書かなければあなたの人生は開花しない』と背中を押されたのです」
そして中園さんは1週間、寝食を忘れて犯人の捕まらない刑事ドラマに取り組むのでした。
1988年、28歳の時に『ニュータウン仮分署』で脚本家デビューし、その後も単発ドラマから連続ドラマと
脚本家の道を進んでいくのでした。
未婚での出産
28歳で脚本家デビューしたものの、順風満帆とは言えず、
拘束時間の長い連ドラは避けるなど、どこか仕事に向き合い切れずにいた中園さんですが
33歳のときに脚本家で生きていく決心をします。
それは予期せぬ妊娠でした。
相手の方とは結婚ができず、産まない選択もふくめて3日間悩み抜き、産む決断をします。
「産まない方向に気持ちが傾いていた間、気持ちが塞いで食べ物がまったくおいしくなかったけど
3日目に、産む方向で考えてみると途端に食べ物がおいしく感じられて、産もうと決めました。
いま思えば人生最良の決断でした」
1993年に34歳で未婚のまま長男を出産し
「認知されてもいないし、子どもだけは食べさせないと」と追い詰められたとき
「ひとりで育児をしながら自宅でできる仕事は脚本家しかない!」と覚悟を決めることができたのだそう。
それからは「連続ドラマはきつい。もっと楽な仕事があるはずだ。
こんなしんどい仕事やめてやる」と思っていた脚本の仕事だが、依頼はすべて受けることにした。
「妊娠出産を経験する前は、いつも『この作品を最後に辞めよう』と思っていましたが、
子どもを産んでからは、『もうこの仕事しかない』と腹をくくりました」
子育てをしながら、しかもシングルマザーで育児と仕事のバランスを保つことはとにかく大変だったようです。
子どもを寝かせて、仕事に集中できるのは夜11時すぎ。徹夜で書いて、子どもを起こして、弁当を作って保育園に送り出す。朝起きられないのが何より怖かった。ホッとして、しーんとした部屋でビールを飲んで、子どもが戻ってくるまで寝る毎日。
脚本家としての自信はまだなかったが、毎日歯を食いしばってディスプレーと向き合い、
産後の復帰作、シングルマザーのヒロインを描いたドラマ『FOR YOU』(’95年)が高視聴率を記録しました。
その後、林真理子さん原作のドラマ『不機嫌な果実』(’97年)の成功で恋愛モノの執筆が続々と舞い込み、
人気脚本家として確立していくこととなりました。
60代になって
64歳となった中園さんですが、脚本業のかたわら、トークショーに出演し、
自身の経験を語る機会が多くなっているそうです。
また、自分自身が大きな決断をするときに、占いの存在が有益なものだったということで
様々な悩みや人生の節目を迎える方たちに、何か役立てばという思いから
60歳を過ぎてから占いの仕事を再開されています。
まとめ
さて今回は人気脚本家の中園ミホさんの経歴や生い立ちをまとめてみました。
調べれば調べるほど、魅力的な中園さん。
女性たちの生の声を聴いて、応援するためにドラマを執筆したり、
トークショーでは自分の経験談から女性としての生き方についてアドバイスしたり、
占いで人生の選択を豊かにできるよう、手助けしたりと多才なのですね!
次回作のドラマも楽しみです!
お酒はほどほどに!これからも第一線でご活躍されることを応援しています!
最後までお読みくださりありがとうございます。